謙遜縛りの効能と弊害
私が会話で常に意識していることで「謙遜縛り」があります。これをやっている理由と、最近感じてきた弊害について書いていきます。
理由
私が成果物を人に見せたり話たりするのは技術系かイラストなので、その2つに限った話になります。
技術系
大抵、技術的成果物が褒められたときに一番に思うのは「もっと強い人ならサクッと作れるんだけどな」とか「別に誰でも作れるようなものだけど」といったことです。ですので、「すごいですね」って言ってもらったときに何も考えてないと「大したことないですよ」とか自分を卑下することを返したくなっちゃいます。
でも相手が褒めてくれるときっていうのはそう思ったときか、相手の自己肯定感を良くして上げたいときなので、それを自分の認識で挫いてくのって誰も幸せにならないんですよね。
イラスト
イラストだと更に心情が複雑になります。自分のイラストって気に入ってる箇所もあればもう目に入れたくないような箇所もあって、さらに時間を置くとそういう箇所が変わっていったりします。そういうものを「かわいい」みたいに褒められると、(嬉しさもありますが)「このキモい部分を見てもそんなこと言えるのか?」みたいに思っちゃいます。
本当の理想を言えば「かわいいね。この部分はこう見えて違和感がある。」みたいな感想が最高に嬉しいです。でも人のイラストを指摘する行為って難しいし、面倒なんですよね。互いのの創作観を知っていて、アドバイスには正解がないことを分かってる同士じゃないとできないので。
結局そういうのは仲の良いフレンド同士でやるべきことで、TwitterみたいなオープンなSNSに持ち込むようなことじゃないんだって絵を描きはじめて半年くらいで気づきました。
とにかく
会話の流れを遮る必要はないし、相手に褒め以外のリアクションを求めるのは要求が高すぎるってことです。また、これが一番大きいのですが、褒められるのは滅茶苦茶嬉しいので褒めてくれた相手には感謝すべきで、褒め言葉を素直に受け取っておくのが褒めてくれたことへの一番のお礼だと思います。
この縛りを続けてきた結果、褒められたときに後ろ向きな感情はあるのですが、褒められた部分は褒められた部分で素直に受け入れられるようになってきたので自分にとっても良い影響が大きいです。
あまり気に入っていなかった絵も、褒められることで気に入ってくるってこともありました。
弊害
そういった理由で謙遜を縛ってきたわけですが、研究室に入って研究を始めてからの弊害で、指導教員に実力を過剰評価されている気がします。
卒業研究のテーマ決めの際に「こういう事をしようとしている」っていうのを話して、それじゃ成り立たないとか、1年じゃやりきれないみたいなことをアドバイスしてもらうフェーズがあります。私は、実現可能性は教員が全部判断してくれるだろと考えてサーベイに集中していたのですが、夏頃から風向きが怪しくなって最近大変なことになっています。
まあ机上で行うような研究テーマなので着地のさせようを無理やり変えてしまうことはできるので、そこも考慮していたのかもしれませんが。
思えばその教員の講義後の面談みたいなので、「この授業内容役立った?」みたいに簡単すぎたでしょみたいなオーラで聞かれたときに怪しんでおくべきでした。それに対しては謙遜でもなく事実として初見の内容ばかりだったので「初見の内容ばかりでした」と言ったんですけどお世辞と思われたんですかね。
そもそも大学の教員は"利用"すべき相手なので、あれって思ったあたりで素直に確認しておくべきでした。
まとめ
一番良いのは柔軟にやることなんですけど、コミュニケーションが下手くそなのでこうやってルールベースで縛っています。「縛り」という極端なことをやってもメリットのほうが大きいと感じてるのでこれからも続けていこうと思います。